新発見の刀剣「神道無念流 NEWS」

投稿日:2026年10月15日(木)

幕府士川井久幸八十一歳作 慶応二年八月日 <神道無念流4代 戸賀崎熊太郎芳武(尚道軒)の愛刀>

 

細川正義の弟子、幕臣でもあった川井久幸の作による刀です。大和伝のよく切れるという伝法に私淑したと思われ、大和伝風の鎬の高い柾目が顕われる作刀を得意としました。その作刀は武用専一の武骨な実用本位の作風で知られ、腕の立つ武士に大いに賞用されました。また大和伝は南朝(後醍醐天皇)に協力した大和鍛冶の作風でもあって、そこには勤皇の思いもこめられていると思われます。幕臣の多くが久幸に注文しており、埼玉県の郷土刀ともいえます。

この刀は豪壮な姿が良く、久幸が得意とした槍に通じる実用本位の力強さを感じます。近年の研ぎで一部に疲れがありますが、いまだ総体に重ねが厚く重厚で、新々刀とは思えないような古色ある地鉄が顕われ、鉄の強靭さを感じさせます。本作は近年、道場の床下から発見された、神道無念流4代、戸賀崎熊太郎芳武(尚道軒)の愛刀です。<以下は恵文館webページより>

 

「4代 戸賀崎熊太郎芳武 (1839年~1907年)」について

幼名を和一、名を芳武、号を尚道軒と称した。喜道軒熊太郎芳栄の長男として天保10年(1839)2月10日武蔵国埼玉郡上清久村(現久喜  市上清久144番地)に生まれた。生後2年目の天保12年(1841)に父 芳栄が江戸の牛込に道場を開設したので、父と一緒に江戸へ出た。道場は牛込の地から弘化4年(1847)に本郷3丁目に、そして安政5年(1858)には小石川の舟河原橋に移ったので芳武はこれらの道場で少年時代から青年時代にかけて、父熊太郎芳栄をはじめ多くの門弟について修行に専念した。当時の江戸では、神道無念流の分家的な存在であった斉藤弥九郎(初代熊太郎暉芳の弟子の岡田十松が師)の「練兵舘」が隆盛を極め、江戸の三大道場の一つ(他の二つは、桃井春蔵の「士学舘」・千葉周作の「玄武舘」)として名声を博していたので、芳武も足繁く「練兵舘」に通って、自ら剣技の修行に努めた。また、芳武は代々受け継がれてきた剣の血筋は正しく、門弟たちが芳武に寄せる期待と信頼は絶大であったといわれている。芳武の父熊太郎芳栄が水戸藩主徳川斉昭に厚遇され、水戸の弘道舘道場の指南として多くの門弟の育成にあたっていたので、芳武自身も青年時代から水戸藩士と交流があった。はっきりした年代はわからないが、芳武も父熊太郎芳栄の没後、水戸藩に仕え剣術指南役として50人扶持に給せられた。

幕末にピリオドを打ち明治の新時代を迎えようとする時期、江戸は混乱の真っ只中にあり、幕府は剣術の達人たちを集めて市中警備の任にあたらせた。熊太郎芳武もこれに加わり門人たちを引き連れて町奉行関口権助とともに江戸警護の大役を勤めた。明治時代になり、明治4年(1871)に廃刀許可令が、さらに明治9年に廃刀令が具体化されると剣術は衰亡の一途をたどったので、熊太郎芳武は江戸における剣術指南に区切りをつけて、明治11年(1878)に郷里の上清久村に引き揚げ、ここで郷村子弟の教導にあたった。ときに熊太郎芳武40歳、人生のなかで最も油ののった年齢であったといえよう。明治維新以降、日進月歩の勢いで近代化に邁進する社会情勢と裏腹に旧幕府時代に脚光を浴びていた剣術は衰微の兆候がますます強くなる中にあって、地方では未だ剣術に対して愛着を持つ者が多く、熊太郎芳武が生家に帰ると芳武の剣技を慕って毎日早朝から何百人という子弟が近隣の各村から道場に通ってきたと伝えられている。戸賀崎家に残る起請文の一つに、明治13年から明治40年にかけて誓詞血判した門人が約200名も数えられることは、それを明確に裏付ける証拠であるということができる。しかし、日露戦争が終わったころ、熊太郎芳武は明治40年(1907)4月3日、切腹して自らの生命を絶った。

その理由は、私(8代正道)が祖父守恵(6代・1886~1968)聞いた話を含め推測すると、明治28年に現代剣道の最初の組織「大日本武徳会」が創設され、全国的に発展し、明治37年~38年の日露戦争の結果、その真価が認識されて、再び脚光を浴びようとしていた情勢下において、芳武自身が実戦的剣術を体得していたことと比較して、明治の中期から急激に隆盛にむかった実用的でない興行のような剣道にそまるようなことに妥協しきれなかったからだとされる。

刃長 反り 元重 元幅 先重 先幅
73.5cm 1.6cm 0.7cm 3.2cm 0.5cm 2.05cm

江戸末期 武蔵 保存刀剣 白鞘、拵付 参考品