兵左衛門百観音堂について

屋号の由来について

菊池を祖とする私の先祖は甲斐を経て天正期にこの地に移住し俗名を兵左衛門と申しました。元禄八年の幕府の検地では案内役を務めた他、旗本小出家の御目付役や西大輪村の名主を勤めた筆頭御家人でありました。なお刀剣との関わりでは、明治十二年刊行の「皇国武術英名録」に記載されるなど、第五代の当主から当代まで新道無念流宗家である戸賀崎家より印可を頂くなどして、武術を通しても関わっておりました。その後、戦前の中央刀剣会に於いて刀剣鑑賞の研究をしており、戦後には寒山、薫山両先生にから指導を受けるなど代々にわたって日本刀に関わって参りました。また屋号にございます百観音堂の由縁としては、白石家出身の尾張家奥女中花浦の祈願により当家の者が日本各地の百箇所観音等、寺社佛閣を安行して回りました。そして、故郷に帰った後に村に各観音霊場の観音菩薩像を勧進して百観音のお堂を建てて人々の幸福を祈ったそうです。この故事より屋号を取り、いにしえの文化財を皆様のもとへお届けしたいと存じます。

参考資料<神道無念流の系譜>

白石 昌和

観音堂について

 江戸時代後期の文化年間(1804~1814)に大輪村白石家当主(兵左衛門)は百ヵ所観音(西国三十三、坂東三十三、秩父三十四)を何度も巡りました。やがて多くの人にお参り頂けますように、各観音霊場の観音菩薩を勧請して観音堂建立の発願を致しました。姻戚であった尾張家筆頭奥女中「花浦様」など多くの人々の尽力により、文化六年(1809)に無事、現在地の近くに最初の観音堂が完成致しました。その後、観音堂は安政二年(1855)の地震により大破しましたが、翌年には再建することができております。ですが幕末期の混乱の中、ついに廃仏毀釈によって明治七年に廃堂となってしまいました。

 この事態を憂慮した当時の当主は明治十二年(1879)にこれまでとは違い、円明院(後に密蔵寺に合寺)内にて再び観音堂再建を発願することになりました。そして県令などの協力により明治十六年になんとか再建を果たしております。しかし、また戦後の混乱のなかで御堂は傷み、堂守りの死去などによって昭和五十年代に取り壊しとなってしまいます。

 そこで平成十五年の温泉の噴出を期に、三度目の再建を発願しました。そして、ついに平成十八年の終わりに、以前と比して小さながらようやく再建を果たすことができました。二百年の歳月を超えて、今度こそ末長く皆様にご参拝して頂けますように祈願しております。

現在の百観音堂

観音堂について

 平成10年五月に掘削を開始し10月に観音様のご加護のおかげで無事温泉を堀り当てる事ができました。翌年7月には仮設露天風呂を開設した後、平成14年2月に本格的な日帰り入浴施設として営業開始しました。また平成16年12月に観音堂の再建を行う事ができました。

 平成17年6月には日本天然温泉審査機構より全国最高クラス、5ッ星の天然温泉として認定されています。これは全国で18ヶ所ほどしか認定されておりません(日帰り温泉では他に大分県に1ヶ所のみ)。首都圏での本格的な天然温泉ということもあり、営業開始から20年ほどですが、御蔭様でご好評を頂いております。是非、温泉にもお立ち寄り下さい。

全国屈指の療養型天然温泉 県内唯一の自噴温泉温度57度

近くの湯治場 百観音温泉 0480-59-4126

JR宇都宮線東鷲宮駅徒歩3分、東北自動車道久喜ICより10分

百観音温泉

書籍のご紹介

白石家観音堂と百観音温泉

百観音堂と白石家にまつわる歴史について


発行/白石昌之

編集/吉本富男氏、野口三男氏

選文/中曽根康弘氏

序文/大山喬平氏(京都大学名誉教授)

定価 1000円+税

兵左衛門百観音堂

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