日本刀名工伝

投稿日:2024年12月20日(金)

大和保昌貞吉

「大和五派」保昌の代表工。良く知られている大和伝の特徴である柾目が最も強い流派で、ほぼ完全な柾目の作もあります。当麻ほどではないですが大和伝らしい特徴である沸の強さも見どころです。在銘はほぼ短刀しかなく、ほぼ無銘極めの作がほとんどです。


「備前長船」

長船長光
長船初代棟梁、光忠の子。長船派として備前刀工をまとめて、武器生産だけでなく美術的にも組織だった製造を開始した歴史的に最も功績のある名工です。作風は初期は一文字風の大房の丁子、後期は互の目乱れや直調子丁子刃の刃紋。在銘作おおよそ160振りで、国宝6点、重要文化財28点、重要美術品36点もあり、質、量共に最高です。

長船景光
長船二代目棟梁、長光の子。長光後期風の作風をはじめとして、片落ち互の目の刃紋が多く、湾れや直刃も見ます。備前物ながら地沸の強い精良な地鉄が特徴で備前刀でもっとも美しい地鉄を誇ります。


<長船景光太刀>

長船兼光
長船三代目棟梁、景光の子。足利尊氏から屋敷を拝領するなど、刀工の確固とした社会的地位を固めた名工です。南北朝の争乱に合わせて豪壮な太刀を造るなどして、戦乱に際しその腕を大いにふるい、後の江戸時代にも最上大業物として知られるようになります。弟子たちは小反り一派と言われます。銘振りの銘字が小さい刀工が多く、また長さがあったので無銘にされた作も多いです。

長船康光、盛光、師光、経家
小反り一派の中からその腕でもって名をあげた応永備前の名工達です。南北朝時代末期頃から室町初期の作は兼光門の政光、倫光と同じ作風です。脇差、短刀を多く見ますが刀、とくに長さのある作品をほぼ見ません。各地の神社で奉納刀として見ることもあり、それ以外は小反りと同じく無銘にされているとの説があります。


<長船経家太刀>

長船勝光、祐定、清光
長船の組織力を生かして工房制を分業工房制にまで高めて生産体制を完成させた一門です。末備前初期の代表工は勝光、宗光の兄弟で、武将としても活躍して室町将軍と共に戦い、その弟子が後に近江の石堂一派として活躍します。末備前諸工は片手打ちと呼ばれる刀、脇差兼用の実用的な作刀が多いです。祐定は与三左衛門尉が多くの戦国武将から様々な注文をうけて、戦国時代一番の名工と言われるようになります。末備前終盤の代表格である清光は赤松氏の庇護のもと、豪壮な作刀が多くあります。


<長船祐定 刀>


<長船清光 寸延び短刀>


「山城来」

来国行

来派の祖で、粟田口派を超える作刀を残しており、備前の長光と共に鎌倉時代を代表する名工です。国の指定でも国宝1点重要文化財15点重要美術品11点が指定されており、質量共に長光につづきます。同国の綾小路派と交流があったと言われ、作風にも足の入り方が通常上向きとなる逆足が、「京逆足」といって下向きとなるのがポイントとなっています。

来国俊

国行の子という、一門中最も活躍しました来派の名工の「二字国俊」の傑作刀は、まるで鎌倉中期の福岡一文字のような華やかな作風が特徴です。なお来派の祖である国行の次代である「国俊」の現存する作品には「来」を冠しない所謂「二字国俊」と、「来国俊」と三字に切るものがあり、両者の関係については兄弟、親子の諸説がありますが、本欄では同人とさせていただきます。

「二字国俊」時代の作風は丁子主体で小沸出来の華やかな刃文を焼いており、特別な大出来のものは福岡一文字に紛れるほどのものがありますが、備前刀と違って刃に沸がよくつき、映りは地沸状となる点があります。次に「二字国俊」時代には来派の手癖である湯走り状の棟焼がみられ、棒樋の樋先は上がり茎に掻き通すのが通例です。かたや「来国俊」は細身の優しい姿をして直刃に小模様の乱れを交える穏やかな刃文を焼くものが多く見られます。

作風の詳細としては、よく詰んだ鍛えに地景が入って地刃共に沸づいて良く冴えたり、刃縁に湯走り風の沸筋を交えて変化に富んだ丁子刃の匂い口が頗る明るくなること、棟に棟焼きが出るものがあることなどが来物の手癖としてよく言われています。なお来肌と言われる話のなかでは肥前刀と同じく皮鉄が薄くなりがちという所伝があり、写真などでは心金がでてしまったものの方がむしろ綺麗に見え、むしろ僅かに瑕があるもののほうが健全だったということもございます。

来国光

来国俊の子とされ、直刃を基調とする刃紋が多い、ある意味もっとも来派らしい刀工です。優美な姿に澄んだ地鉄、すっきりとした直刃と、まさに山城伝の標本的な作風を特徴としています。ただ比較的、在銘は短刀に多く、太刀の多くは無銘です。

来国次

来派とは思えない強い地鉄と刃から来派中もっとも華やかな作風とされ、一説には「正宗十哲」の一人とされて、その力づよい作風が相州伝と鑑定されています。相州伝は鎌倉へ移住した粟田口国綱から生まれており、この刀工が相州伝の代表格とされる根拠には粟田口派と近いことも挙げられるようです。

来国長

国長は国俊の門人であり、国俊の弟の国末の子として南北朝時代に活躍しました。有名な作では恵林寺にある重要文化財の太刀や特別重要刀剣の短刀が知られています。摂津国中島へ移住したことから「中島来」とも言われ、肥後へ移住して延寿一派を成した国村や千代鶴として知られるようになる国安と共に無銘の刀が多い刀工です。


新藤五国光

実質的な相州鍛冶の祖で粟田口国綱の子と言われています。刃は粟田口に比して沸が強いですが、総じて山城風です。弟子に行光、国広などがおり、この弟子の時代に相州伝が確立します。

相州行光

相州伝を完成させた名工で正宗や秋廣、広光がこの流れを伝えています。作風は地鉄に地沸がみっしりとついて鍛えが綺麗で、刃紋は一見、大和物にも見えますが、より煌めく沸が地刃に一段と強くついて沸出来の妙を見ることができます。鎌倉武士の荒々しい武用の美を日本刀に表現した作風とされ、後の世まで続く、相州伝の発展をつくりだした名工です。

相州秋廣、広光

行光、正宗の作風を受け継ぎながら、刃紋の形で相州伝を表現し、皆焼きを創始した名工達です。後の世ではこの皆焼きが相州伝の特徴とさえ言われるようになります。なお刃中の沸が単純に強いのでなく、 元から先にかけて刃紋と共に匂い口の沸も強くなっていくという、まさに覇気を感じさせるリズムを南北朝時代特有の平造りの大振りの刀身に表現しています。在銘作はほぼ短刀、脇差で、刀を中心に無銘を見ます。

相州広次

室町時代に武士の中心が鎌倉から京都に移りつつあるなかで、古刀期相州鍛冶の力を最後に発揮した時代の名工です。広光の次代と見られる刀工で、秋廣、広光に見紛う作があり、前時代の破綻するかのような沸出来から匂いを増やして作風が気品よくまとまっており、この作風は戦国時代の祐定、清光につながっていきます。この時代から皆焼きがより洗練されて、刀身すべてに焼きが入っているかのような出来を造ることが可能になっており、さらに彫刻でも備前の彫りを凌ぐような作品もございます。前時代と同じく短刀、脇差が多く、刀は片手打ちとなります。