<山城信国>について

投稿日:2024年02月12日(月)

信国は初代を京鍛冶の名門である来一門の了戒の孫という刀工で、正宗十哲に準じるとして相州貞宗に学んだとも伝え、延文・貞治の年紀のあるものを初代としています。同銘が室町初期まで数工おり、いずれも同時期の山城伝の名工であり、また彫刻上手でも知られています。南北朝時代は長谷部一派の活躍が目覚ましく、信国が最も活躍したのは応永頃であり、多くの作刀は来派所伝の直刃を焼いて上手であり、なかには来国光を見るかのような出来もございます。

姿は宝刀をそのまま小さくした様な優美な姿が多く、来肌のような澄んだ美しい地肌に地沸映りが立ちます。乱れ刃の出来は比較的珍しいですが、互の目丁子の刃紋の出来は沸出来の華やかなものがあり、小丁子が交じった古調な出来は小沸出来で冴えたものをみます。俗名を切るものに「式部丞信国」や「左衛門尉信国」などがいて、小太刀や短刀など来派が得意とした貴人の為の作刀を手掛けております。現存する作刀は山城伝の古名工のなかでは多く、足利幕府の元で山城伝として来国俊以来の繁栄をみています。先述のように刀の作は少ないですが、時代性か槍などの特殊なものもございます。なおその後、この信国一派は足利幕府の終焉に従って九州などに移住し筑紫了戒や筑前信国などと呼ばれるようになりますが、歴史の流れのなかで徐々に独自性を失っていきます。