<来国俊>について

投稿日:2024年02月12日(月)

山城伝を代表する京の刀工として栄えた来一門は国行を祖として鎌倉から南北朝期にかけて活躍しました。来派は長船物と同じく、それまでの古京物や古備前と一線を画した美術的に洗練された一派であり、剣から太刀と変遷した実用本位の美しさからさらなる進化を果たした卓越した刀工一派です。それ以前の粟田口などは個別の作品によって素晴らしいものがございましたが、来物や長船物の品質管理は別次元といってよく、平均点の高さと作品の数が安定しています。どの作品もこれ以上はないというほどの姿の良さ、刃の柔らかい明るさがそれを物語っています。

さて、一門中最も活躍しました来派の名工の「二字国俊」の傑作刀は、まるで鎌倉中期の福岡一文字のような華やかな作風が特徴です。なお来派の祖である国行の次代である「国俊」の現存する作品には「来」を冠しない所謂「二字国俊」と、「来国俊」と三字に切るものがあり、両者の関係については同人、または兄弟、親子の諸説があり現在のところは確固とした定説がございません。

まず同人説の論拠としては、「二字国俊」には弘安元年(西暦1278)の年紀を有する太刀があり、さらに徳川美術館所蔵である重要文化財指定の太刀「来国俊 正和四年(西暦1315)十月廿三日○○七十五歳」に行年の添えられた太刀がございますので、前記の弘安元年紀の国俊の作は38歳に当たることから年齢的には同人説に無理な点はございません。

次に兄弟説の論拠としては「解粉記」の記述があり、こちらに拠れば「二字国俊是は国行が嫡子也。若時死たり。来国俊国行が二男也。是より来の字を打初むる」とあり、二字国俊は早世であった為に弟の来国俊が跡を継いだとあります。

最後に親子説としては、徳川美術館所蔵の重要文化財太刀「来孫太郎作 正応五年(1292)壬辰八月十三日」は来国俊の作として伝来していることに論拠をおいています。この太刀の銘文に拠ると、来国俊は事実上の始祖「国行」の孫で且つ嫡子(太郎)であることを称しており、これに拠れば国行→二字国俊→来国俊の親子嫡子説も成立します。

以上の通り古伝書からいくつかの説が伝わっておりますが、ほぼ同時代の長船長光にも二代説が言われておりましたが昨今の研究により一代説が最も有力となってきており、今後は国俊もおなじく一代説が有力な説となりつつあるようです。

なお双方の作風には大きな開きがみられ、「二字国俊」は丁子主体で小沸出来の華やかな刃文を焼いており、特別な大出来のものは福岡一文字に紛れるほどのものがありますが、備前刀と違って刃に沸がよくつき、映りは地沸状となる点があります。さらに「二字国俊」には来派の手癖である湯走り状の棟焼がみられ、棒樋の樋先は上がり茎に掻き通すのが通例です。かたや「来国俊」は細身の優しい姿をして直刃に小模様の乱れを交える穏やかな刃文を焼くものが多いため作風は区分されます。

作風の詳細としては、よく詰んだ鍛えに地景が入って地刃共に沸づいて良く冴えたり、刃縁に湯走り風の沸筋を交えて変化に富んだ丁子刃の匂い口が頗る明るくなること、棟に棟焼きが出るものがあることなどが来物の手癖として言われています。なお来肌と言われる話のなかでは肥前刀と同じく皮鉄が薄くなりがちという所伝があり、写真などでは心金がでてしまったものの方がむしろ綺麗に見え、むしろ僅かに瑕があるもののほうが健全だったということもございます。日本刀は三次元の立体物ですので、写真などの一元的な美観に左右されない鑑定眼を養いたいところです。