刀剣小話

日本刀豆知識

刀の手入れ方法

 次ぎは基本的な手入れ方法の詳細です。まず刀を刃を上にしてゆっくり抜いて下さい。次に古い丁子油を油ふき用の布などで拭取ってから、丁子油を染みこませた布で丁寧に薄く油の膜を作るように丁子油を塗って下さい。その結果、刀身を(湿気のある)空気から有機性の油によって遮断することで、日本刀は半永久的に保存できます。 昔くは布ではなく、打粉という砥石の粉を刀身にまぶす事で油を吸い取っていました。今は油を拭取る布を使うほうが簡易で安全です。打粉は砥石の粉の粒子の大きさによってはヒケの原因になる事もあるからです。 また、手入れ中で注意が必要なのは刀身の持ち方です。必ず刃を上に向けて鞘の出し入れを行って下さい。刃が下ですと鞘を傷付けるばかりか、何かあった場合には手や足の方へ刀身が向かう可能性もあります。そして刀身に布で触れる際は棟の方から手を近づけて下さい。棟なら手が当たったとしても安全です。総じて乱暴に扱わなければ問題ありませんので、必ず丁寧に行って下さい。 古い刀がこれまで多く残されてきたのは先人の努力によるものであり、刀が多くの文化財の中で殊更貴重だった証左であると思います。つまり、刀の鑑賞とは歴史上の人物が手に取ったものを現代の我々も実際に手に取って追体験できる素晴らしい楽しみなのです。

日本刀の鑑賞方法

刀をどういう手順で見るのか、いろいろな見方がございますが基本的な手順となります

  1. 1、素手で中心を持って垂直に立てて全体の姿、刃長、反り具合を見て下さい。(大体の時代が分かります。)
  2. 2、光源と刀を平行にして地肌を見ます。刀の表裏に材木のような肌目が顕れていますのでそれを確認して下さい。(板目、杢目、柾目が基本です。)
  3. 3、次は鑑賞の本番である刃紋の匂い口の鑑賞です。前方に白熱電球等を置いて刀身をその電球に向けるとある角度になりますと刀身の刃紋が浮き上がってきます。これが匂い口でありまして焼き入れによってできた鉄の結晶です。この匂い口を観察することによって刀の状態(出来)を楽しむことができます。

 匂い口には締まるもの、フックラとするもの、深いものなどがあります。匂い口の太さは作風次第ですが、ムラがないものが出来が良い刀です。良い刀を多く御覧になって頂き、比較検討することでその良さや違いが少しづつ見えてくるのではないかと思います。総計で600万振りもの刀が日本にあると言われておりますが、一つとして同じものがなく、さらに残されてきた経緯(伝来)も全く違います。

            

鑑賞上の注目点

 刀を見る上で押さえておきたいポイントを述べておきたいと思います。なんとなくでも把握しておきますと後々、比較でき参考になるかと思います。時代や流派の特徴となっている場合もあります。

  1. 1、刃長 刀は二尺以上、脇差は二尺に満たないもの、短刀は一尺に満たないものです。太刀は二尺五、六寸、刀は二尺三寸前後が多いです。
  2. 2、中心が生ぶか磨上か 慶長頃まで磨上が多く見られます。
  3. 3、姿 反りの深浅、切っ先の大小、身幅の広狭、重ねの元と先の違いなどを見ます。
  4. 4、地肌に柾目があるかどうか ある場合は棟寄りか刃寄りのどちらにあるかを見ます。

 なお太刀と刀の区別としては、太刀は刀身、中心共に反りが深く、刀は刀身、中心共に反りが浅くなっています。また刀には片手で使う場合と両手で使う場合があります。このような点を把握していくことで違いが分かり、鑑賞が深まっていきます。

            

刀の鑑定について

 刀の鑑定は無銘を極める為に行いましたが、出来で刀を見分けられる唯一の方法ですから、刀を理解する上でも大事な方法です。今回は刀を楽しむ一つの見方として述べたいと思います。

1、時代

 刀の鑑定をする上でまず最初に考えるべきなのは、その刀が何時頃作られたかです。即ち、古刀か新刀か新々刀のいずれなのかを判断するということです。入札では間違いますと時代違いとなります。時代の確定は一番最初に知りたい情報ですので、これはならべく間違えたくないところです。

 指標の一つは古刀と新々刀は本刃が乱れで帽子も乱れ、新刀は本刃が乱れで帽子は直となります。なお、この方法は直刃の場合には使えません。新々刀の特徴としては、乱れの足が刃先に抜けがかるや、刃が特に固いので刃が地より僅かに浮き出て見えるなど、全体的に古刀より固い感触があり、地肌も無地風の詰んだ地鉄となります。匂い口も沸が古刀より荒く、大きくなっております。

2、国(生産地)

 次に判断すべきなのはどこで作られたかです。基本として五畿七道を使い分類し、入札では同じ街道筋は通りとして近い分類となり、外れますとイヤとなります。

 判断の指標は、古刀はまず備前(長船)かどうか考え(鮮明な映りや丁子刃がある等)、柾目があったり尖り刃があり且つ表裏の刃紋が揃う物は美濃(関)と考えます。この二国が作刀のほとんどを占めておりますので、他は個別の流派の特徴で拾っていくべきかと思います。(来は沸映りが顕われる、宇多は地鉄が黒く見える、九州物は刃寄りの肌に柾目が目立つなど。)

 新刀は、まず肥前か大阪か江戸かを考えます。綺麗な肌で中直刃というのは肥前刀の特徴ではありますが、これだけですと大阪も考えられます。刃縁の匂い口が帯状となる特徴があるのが肥前刀です。そして刃幅が深く地鉄が綺麗なのはまず大阪と考えます。また反りが浅く刃幅が狭いものは江戸です(兼重、安定、虎徹は例外的に刃幅が広いです。)。この何れでもない場合は、近いと思われる物から考えを広げて類推していきます。例えば大阪に似て刃に尖りや地肌に柾が目立つものは越前の可能性が高く、肥前に似て違うものは高田と考えます。なお新々刀は大部分の刀工が江戸で作刀しております。

3、刀工名

 最後に出来具合(完成度)からその国にある各流派の棟梁各にあたるか、弟子各かを考えます。そして個別の刀工の特徴が分かれば、確信をもって個名を探り当てることができます(堀川国広には水影があるなど)。入札では個名が分かりますと当となり、同じ流派ですと同然となります。

末備前とは

 概ね永正頃から天正から慶長頃までに備前で作られた日本刀を末備前と呼んでいます。戦国時代に武器としての日本刀の大量の需要に応じた為に質・量共に日本刀が史上最も多く製作された期間と言えます。このように作品数から考えても日本刀の代名詞でもある備前長船を手に取って楽しめるのは何と言っても末備前と言えましょう。また末備前を愛好するのに適する理由のもう一つは現在、健全な物が多く残されていることです。なお、この時期は数打ち物と呼ばれる粗悪な日本刀も製作されましたが、それらは長い日本刀の歴史の中で淘汰(秀吉の刀狩りなど)されてきました。それに対して、俗名入りを含む注文打ちの日本刀は地鉄の鍛錬が優れていますので大切にされたのでしょう、状態の良いものが多く残されています。

 そんな末備前を代表する刀工の双璧とされるのが与三左衛門尉祐定と五郎左衛門尉清光です。この時代には、彼らの他にも勝光、忠光など名工達が多数いますが、どうしたものかこの二人が末備前の代表刀工のように言われることが多いようです。やはり末備前の場合、祐定の乱れ刃と清光の直刃に日本刀として見るべき物が多いので両刀工の技術力の高さを称えてのことと思われます。

 ここで両工の特徴をもう少し詳しく申し上げます。まず祐定は蟹刃と言われる丁子の乱れ刃を得意としています。ですので直刃の様に見える刀でもどこかに乱れ調子が出る事が多いようです。 その刃文は、盛んに足が入り、葉も働き、直刃に丁子乱れを押し込んだように華やかな物です。次は清光ですが、その作刀した日本刀の中には古作の青江を見るかのような出来口があります。但し、これら祐定、清光の両名工は作刀が多い為か作風も多様で互の目丁子乱れ、中直刃、皆焼、湾れ、太直刃など、注文打ちの多さからも当時の大変な繁盛振りが窺えます。

   

もう少し五郎左衛門尉清光について補足します。毛利元就をご存知でしょうか。彼は厳島の合戦の折、五郎左衛門尉清光に陣太刀を一振り打たせ大勝利を納めています。また維新の英雄、桂小五郎の佩刀も藩祖に習ったのでしょうか、やはり五郎左衛門尉清光でした。彼は、かの清光を寸時も身体から離さず維新の大業達成のため国事に奔走いたしました。

 

このように末備前は、多くの武将、偉人が愛刀としてきたことからでも大変な名刀が多い事が窺えます。さらに末備前のように健全な状態で残っている刀剣はその刀の本来の匂い口(刃の状態)を見る事が出来ますので刀剣鑑定上も大変重要な位置を占めています。

片手打ち

 室町初期より本格的に造られるようになった腰刀が発展した打刀の実戦的な姿です。

 粗製品では古代からあったと思われる姿で、日本刀の作刀としては鎌倉時代中期頃の小太刀がその起源となっております。ただ高級武士による注文に限られており、ごくごく少数の作刀しかございません。その後もほとんどの腰刀は平造りで本造りはありませんでしたが、その後、嘉吉の乱頃に片手で使う本造りの腰刀が使われ始め、長寸(二尺弱以上)の刀は馬に乗る際は太刀となり徒歩では打刀となりました。ちょうど与三左衛門尉祐定等が活躍した頃の時代には二尺三寸程の長さの打刀が作られ始めており、片手打ち両手持ちが兼用されるようになったと思われます。その証拠に、両手持ちとも違いかなり中心ががっしりしております。これは片手で持ち易くする為で、中心が太ければ、拵えの柄も太くなり両手ではやや持ちにくくなります。

 この後、江戸時代は徒歩中心ですので両手持ちの二尺三寸が登城に使う二本差の定寸となり、現代では刀は二尺以上と決められようになりました。古くからあった太刀は馬上にて片手で使うものですので、剣術の発達がなければ長さの違いがどうあれ日本刀を両手で使うことはなかったと思われます。両手打ちでは剣術という技術によって両手で刃筋を通してものを切るところに強みがあります。左右の手の力がばらばらでは、片手で使ったほうがをよく切れることさえあります。棍棒のように叩きつけるならもちろん両手で良いのですが、日本刀の切れ味は刃筋を通すことで最大限に発揮されます。この結果、両手持ちの長寸(二尺三寸)は出現が遅れ、末古刀は使い手と場面によって片手打ちと両手の兼用がなされたと思われます。

 総じて姿は武器の変遷と密接に関連し、過渡期ではいろいろな試行錯誤が続いて例外がたくさんございますが、時代を考察するにあたっては姿と中心の形状は大きな判断材料となっております。

五ヵ伝について

山城伝

  山城伝は、平安中期の京都で朝廷の武器製造所である粟田口一派を祖とし、京都を中心に栄えた伝法です。朝廷に仕える貴族や天皇の需要に応えて優雅な太刀を製作し、鎌倉末期まで栄えました。鎌倉後期に勃興した相州伝は、この山城伝と備前伝の鍛冶がその基礎を築いたと言われます。なお室町前期には名工が少なくなり、応仁の乱以後には刀工は数えるほどとなってしまいます。 姿は元から先にかけてゆったりとした曲線美を現し、宝刀然とした太刀姿の華表反りで、総体に身幅は狭く、小切先で平肉豊かに穏やかな上品さがあります。鎬は高く、重ねは厚く、匂い口は小沸本意の作刀です。地肌は小杢目が良く詰んで、地沸も良くつき潤いがあります。刃文は直調子に丁子乱れが交じり、小丁子乱れや直刃丁子乱れとなります。金筋、地景、二重刃、打ちのけ、湯走りなど働きが豊富で、鋩子は小丸、大丸などで返り少なく上品です。棟は庵棟または真の棟となります。

大和伝

  大和伝は古代から日本刀発祥の地として作刀が始まり、五ヶ伝中でも古い流派と言えます。平安京へ遷都されるまでは奈良が都であり、政権の庇護のもと刀剣の製作が行われました。これらは原始的な造刀に依る直刀であり、山城伝と作風は共通します。古墳時代には副葬品として古墳に納められた他、奈良時代には正倉院に納められ、これらは上古刀と呼ばれています。平安京への遷都の際は作刀も減りましたが、平安後期には仏教諸派の興隆によって奈良の寺院はその力を盛り返し、多くの僧兵を抱えるほどの勢力になりました。これらの寺院のお抱え鍛冶として僧兵の武器を製作した鍛冶が大和伝の本流です。そして大和鍛冶の多くは抱え主である寺院の名をその流派の名としました。その後、大和鍛冶は寺社と趨勢を共にしましたので、度重なる戦などによって実戦に使用されたためその現存は少なくなっています。

大和伝の作風は傷が出やすい柾目を特徴とするなど、実用本位の造りになっていると言われます。姿は山城伝の上品な姿と共通し、さらに重さを軽減するために棟の重ねを薄くして、その分、鎬を高く厚くしているのが特徴です。なお後年、この造り込みは利刀造りと呼ばれて末備前に取り入れられます。地肌は全体的に柾目肌を主として、柾目肌となるか柾目に流れる特徴があります。刃文は沸本位の直刃仕立てに互の目、小丁子が混じり、二重刃、打ちのけ、喰い違い刃など、柾目の肌に沿った縦の働きが見られます。小沸出来もありますが、実は大和伝は沸が強く、相州伝より沸が強いとも言われます(当麻など)。上に行くほど沸が強くなる傾向にありますので、鋩子は掃掛気味となり、焼詰、火炎など、返りは浅いです。また棟は庵棟となり、棟が高くなっています。また、大和物の特徴として無銘のものが多いということも良く言われます。多くの大和鍛冶はそれぞれの寺社に専属し、それら寺社のための刀などを製作しました。当時は抱え主に直接納める場合や、高貴な人に献上する場合は、作者の名を入れないと言われます。なお鑑定上、千手院、尻懸、手掻、当麻、保昌の5つを大和五派と呼び、大和伝とはこれらの作風を言いますが、手掻以外は現存する在銘はほとんどなく、また大部分が鎌倉後期以降のものです。

備前伝

  備前伝は新々刀機まで続いた刀剣王国です。備前国は、各時代の政治の中心地から離れた所にあり、その盛衰に影響されずに繁盛しました。また砂鉄や水、木炭といった日本刀の製作に不可欠な材料が豊富にあり、銘鑑に記載されている刀工数は古刀期だけで1,200人以上あり、これは相州の16倍、山城の12倍、美濃の5倍にあたります。そして備前の刀工達はその時代時代の流行を取り入れ、全国の需要に応えて大いに繁盛しました。その理由は、こと備前伝はすべてにおいて過ぎることがない頃合いの作品であって一般的に好まれる為と思われます。

備前伝の特徴は、刃紋は匂本位の丁子乱れか、乱れ、もしくは腰の開いた乱れを焼き、品位があります。地鉄はよく鍛えられて、板目肌に杢目が交じり、地鉄に柔味があるので映りが現れます。また鋩子は刃文に沿って乱れ込み返りは浅く、棟は庵棟です。備前伝は匂本位の伝法ですが、平安時代から鎌倉初期までの最初期は、山城伝と同じく沸出来の直刃仕立ての刃文を焼きます。鎌倉中期になって福岡一文字と長船によって匂本位の丁子刃の焼刃が現われますが、鎌倉後期には重花丁子のような焼刃に高低差があるものに変わって、互の目丁子乱れが目立つようになります。この時期には長船が備前の主流となり、備前長船が名刀の代名詞のように言われるようになりました。南北朝期になると腰の開いた互の目丁子が多くなり、映りも乱れ映りの他に棒映りも顕われます。室町初期は大小を差す形式の始まりであり、腰に差すのに頃合いの姿となり、映りは乱れ刃であっても多くは棒映りになります。戦国期の末備前は腰の開いた互の目丁子の谷が丸くなるのが特徴ですが、刃味を高めるために小沸出来となり、映りはほとんど顕われなくなります。

相州伝

  相州伝の発生は鎌倉中期になってからのことで、幕府が山城国から粟田口国綱を、備前国から一文字分派の国宗を、少し遅れて備前国福岡一文字助真を鎌倉へ招いたことに始まると言われます。その頃、鎌倉中期末の元寇により戦闘方法にも変化があり、刀工達はその対応に取りかかりました。特に鎌倉幕府お膝元の鎌倉鍛冶は新たな鍛錬法の研究に取り組み始めたと言われます。粟田口国綱の子である新藤五国光は、同じく鎌倉へ下向した備前三郎国宗にも学び、山城伝、備前伝の双方を習得しました。また国光は「長谷部」と称したことから、大和国との関連があるとも言われ、山城伝や大和伝を強化した地景の強い鍛錬法に取り組みました。そして新藤五国光が取り組んだ強い地刃は、弟子である行光に受け継がれ、その子と言われる正宗にも受け継がれたと言われます。 相州伝の特徴は、板目肌に地沸が厚く付いて地景が交じり、荒沸本位の焼き幅が広い大乱れ、互の目乱れ、飛び焼きや皆焼などを焼き、金筋、稲妻などの働きが豊富な、強い地刃であるということです。刀身の上部にいくにつれて焼き幅が広くなって、焼きが高くなる傾向があります。この伝法は実際には当時の主流とはなりませんでしたが、覇気があると称され時代が下りるにしたがっておおいに人気を獲得していきました。

                                 

美濃伝

  美濃伝は五箇伝中で最も新しい伝法です。南北朝期に大和国の元重が美濃国の志津へ、志津三郎兼氏が美濃国の関へ移住して相州伝ををもたらし、もともと大和伝系であった美濃国で大和伝に相州伝が加味された新たな作風が生まれました。そして南北朝時代、戦国時代といった争乱の時代に急速に繁栄しました。特に戦国時代にこれほど繁盛したのは、美濃国が東国や北陸などへの中継地であり、美濃国や周囲の国々に有力な武将が多くいたため、必然的にこれらの武器需要に応える拠点となったのです。有名な刀工としては、三本杉(杉が3本ずつ並んだような刃)で有名な孫六兼元や、武田信玄など戦国武将からの注文に応じた之定の他、兼房乱れと呼ばれる、華やかな互の目丁子を得意とした兼房などです(後代の兼房は銘を氏房と改め、織田信長の抱え鍛冶となっております)。

美濃伝の特徴は、姿は刀、脇差共に反り浅く、棟低く鎬は高く中切先で、樋や彫刻は少ないです。地肌はザングリとした剛い板目肌が多く、中には杢目肌が肌立つなどよく練れ、棟寄りあるいは刃寄りの地肌は柾がかります。刃紋は頃合いの焼き幅に匂本位の刃を焼きますが、刀工によっては沸つくものもあり、どこかに尖り刃が交じります。直刃を焼いても、どこかに尖り刃が交じりがちで、尖り互の目や大湾れ、矢筈刃、箱乱れ、互の目丁子など多彩です。ただ、なかでも直刃と尖り互の目(三本杉)を最も得意とします。 美濃伝は匂本位の伝法ですが、初期の兼氏や金重、直江志津などは沸本位の相州伝の作風となる場合があります。南北朝時代に兼氏が没すると、弟子達は隣の直江村へ移住して鍛刀しました。これら直江村の一派は「直江志津」と呼ばれます。なお、志津とは兼氏のことを指し、無銘の物で初代兼氏作と鑑定された物は「志津」と呼ばれます。この頃になると、鎬地は柾がかり、刃紋は尖り刃が目立ち、地鉄は白け気味になってきます。鋩子は独特な地蔵鋩子となるものが多くみられます。これは鋩子の先がくびれて棟側に堅くとまるもので、その形がお地蔵様に似ていることからそう呼ばれます。

室町時代になると美濃伝の刀工、作刀数は増大し、関の地に刀工が集中しました。直江村の鍛冶も応永頃には振るわなくなり、また度重なる河川の氾濫により関などへと移住せざるを得ませんでした。そして戦国時代になると、関七流(善定、三阿弥、奈良、得印、徳栄、良賢、室谷)と呼ばれる7つの分派が生まれ、それらの流派の7人の頭による合議制によって作刀が行われ、個人の刀工が勝手に作刀することはできませんでした。これにより戦国時代の膨大な刀剣の需要に答え、美濃と言えば関と言われるまでに繁盛しました。

関一帯に住んでいる美濃鍛冶の作刀を関物と総称しますが、特に戦国時代の美濃鍛冶の作刀を総称して末関物と呼んでいます。その中には簡素化された数打物が多く見られることから現在においては美術的価値は低いとも言われがちですが、備前長船と同じく戦国時代の大量の需要に応えるためです。そのような作刀であっても実用では大きな威力を発揮し、さらにはその切磋琢磨から数多くの名刀も生まれました。その証左に後には美濃鍛冶の弟子の中から、新刀の基礎を作った多くの名工を輩出することとなります(金道(三品一派)、堀川国広、康継、政常などの新刀初期の名工の多くが美濃伝であり、それ以外の刀工も大きな影響を受けたと思われます)。

 

堀川国広について 

 

堀川国広は桃山時代を代表する名工であり、又多くの門下生を育てた事でも知られています。弟子には、正弘、国安、在吉、弘幸、国路、国儔、国貞、国助、等が居り堀川一門と言う大きな集団を形成しております。作風は日州古屋でのいわゆる天正打ちでは末関、或は末相州を偲ばせる乱刃がございます。しかし慶長四年、京一条堀川定住後になりますと相州伝の志津、左文字等に範をとった作風、力強い鏨使いの銘振りに一変しています。これは、弟子達の代作による影響であることが想像できます。では次に、国広の生涯の足跡を詳しく見ていきたいと思います。 国広は日向飫肥の城主である伊東家の家臣であり、父、 国昌は修験者であったと言われております。つまり国広の鍛刀技術は敵対する薩摩の波平一派に習う事は考えられず、作刀にも影響は感じられないことから、むしろ父の後に続いて山伏となったことから九州の英彦山へ行って作刀技術も学んだことが考えられます。修験道に関係のある遺跡が九州の国東半島から大分県一帯にかけて多く存在し、そして英彦山、豊後、日向を通る道には平高田や筑前信国の刀工達がいるので自然と技術交流があったと想像でき、そしてなによりの証拠として現存する刀剣にそれを見出すことができます。その国広の最古の作の年紀は天正四年であり、銘文に日向国古屋在住とあるのです。

その後、主家の伊東家は天正五年十二月に島津の策略にかかり、豊後国大友宗麟を頼って落ちています。 さらに国広は伊東家の一族、伊東満所のお伴でこの時、豊後へ行ったといいます。伊東家が頼った大友宗麟は天正六年、日向へ進軍しますが、耳川の戦いで島津に大敗した結果、伊東家は四国の河野氏を通して豊臣秀吉に仕え、伊東祐兵は河内国に五百石をもらっております。そのころ九州では、大友家が天正十四年十一月に島津家により敗れ滅亡しますが、秀吉による島津攻めが行われて、天正十六年五月に伊東家は日向飫肥城に入りました。しかし、その頃国広は下野国、足利学校に入学したと思われ、天正十八年五月には足利城主、長尾新五郎顕長の為に作刀しており、これが世に言う刀剣、 「山姥斬り」でございます。そして、長尾顕長と共に小田原城に籠城しますが同年七月六日には落ちたと言います。しかし同年八月年紀の足利学校打ちの刀剣がございますので、落城後に国広はまた足利学校に戻った事が推測できます。

次に時系列を追いますと、天正十九年紀の短刀には在京時打之とあるので、この頃は京にいた事は確かです。この間、おそらく小田原相州や島田、加えて美濃の大道との合作もありますので末関からも技術を習った事でしょう。また京に来てから、帰国した伊東満所に再会したと言う話がありますが、残念ながら詳しい話は伝わっておりません。また、文禄の役に参加して朝鮮での作刀があると言う噂がございますが現存する刀剣がないので伝説となっています。その後、文禄三年には石田三成の下で日向検地に参加しているといい、その後は、慶長四年から亡くなる慶長十九年まで、京一条堀川に定住していたとされております。

古刀、新刀、新々刀の区分とは

  日本刀の古刀は平安時代から江戸時代になる直前、慶長までに作られた刀を言います。現存の在銘品の上限は殆どが鎌倉時代初期からですので、それ以後だと考えるのが分かりやすいと思います。日本史の歴史区別では中世と安土桃山とを合わせた時期です。 古刀と新刀の境が慶長とされそれ以降が新刀とされたのは、享保に白竜子神田勝久の「新刀銘尽」その後の鎌田魚妙の「新刀弁疑」の影響が大きいと言われています。つまり新刀は慶長元年(1596年)以降から江戸時代後期の明和元年(1764年)より前に作られた日本刀を言います。日本史の歴史区別では近世の前半大部分です。実際には慶長元年を境にして日本刀が劇的に変わったわけではありません。ゆるやかに材料や技術が変化しています。この期間を新古境いとも言い、新刀でありながら古刀の特徴をもつものがあります。 次に新々刀は明和元年(1764年)頃から明治9年(1876年)の廃刀令までです。日本史の歴史区別では近世の後半となります。但し帝室技芸員になった月山貞一や管原包則など廃刀令以前から作刀している刀工の作品などは新々刀と考えた方がいいでしょう。新々刀は新刀の最末期とも考えられますが、前出の「新刀弁疑」は 安永六年(1777年)に出版されていることも考えるとこの頃から 日本刀が美術品としてさらに広く鑑賞され始めたと思われます。水心子正秀の復古刀論もその中で生まれたものでしょう。当然、幕末の政治状況が大きく影響しました。例えば、刀が武士の飾りではなく実際に使う為、刀長が長くなり切先がのび重ねが厚くなるなどの傾向がある様です。しかし、明治9年3月の廃刀令をもって新々刀も終わります。それ以降の日本刀は今日まで現代刀となります。

{新刀鑑別編} 

   

 肥前刀 (山城伝の影響)

肥前刀は新刀期に最も繁栄した、初代忠吉が創始した一門です。鍋島藩の主導の元、輸出産業として鍋島焼きと共に江戸時代を通して大いに活躍しました。肥前刀は新刀の半分近くを占めると言われており、その繁栄ぶりが伺えます。 作風は初代忠吉の初期作などは末古刀に近い作風を示し、その後匂い口が深く、小糠肌と称されるような美しい地鉄の作風となります。作風的には山城伝、それも来一派を目指したと言われており、山城の埋忠に入門した事、肥後延寿の影響が見られること(同田貫は延寿の末)でも山城伝に近いとされております。刃中では刃縁に帯状の匂い口を確認でき、乱れ刃では刃紋の谷に深い沸がつきます。 初代忠吉が大名の注文を受けて様々な作風の試行錯誤を行い、新刀の代表工である近江大掾忠広の大活躍につないでいます。二代は大工房を率いて多くの代作者がおり、長船長光に匹敵する多くの作品を見ます。これをもって肥前刀は古刀期の備前長船に比肩する刀工集団といってよいでしょう。この作刀手法は南蛮鉄を使うなど新しい技術を取り入れた他、芯金を多く使って高級な鉄を皮鉄のみに使うなど合理的な感覚に優れた設計思想が見られます。なお、肥前本国を中心に九州各国の作刀に影響を与えたと考えられ、豊後高田一派、筑前信國一派などは肥前刀に似通った作刀を見ることができます。

大阪新刀 (山城伝、美濃伝の影響)

新刀中でも美しい作刀が多いのが大阪新刀です。上品な姿、適度な反り、綺麗な地鉄、焼き幅が広く深い匂い口など美術性の高い作刀を誇ります。豪商などの注文か、脇差を多く見ます。商売の中心であった為か様々な系統の刀工がおり、備前伝や大和伝の影響が強い刀工もいます。新刀辯疑で大評価された越前守助広と井上真改が登場しますとこれをお手本にする刀工が多くでました。

越前新刀 (美濃伝の影響)

越前康継を筆頭にする美濃伝を継承する一派です。徳川家の抱え鍛冶を多く出して、作刀技術と権威は新刀一です。焼身の古名刀を再刃するなど、古刀の研究に関しては最も進んだ技術をもっていたことが当時の絶大な評価に繋がったものと考えられます。古刀の技術、ひいては実用面(武用)での信頼性が高い作刀を誇ります。古刀期の美濃伝よりはるかに地鉄が綺麗になっており大阪新刀に近い作刀も多いです。新刀の作刀の2割以上を占めるとも言われます。

 江戸新刀 (美濃伝の影響 )

美濃伝の影響が強い作刀です。会津の刀工もこの範疇に入ります。特徴は棒の様に反りのない姿と切先の小ささです。虎徹や三善長道などでも地鉄がガサツクものがあり、虎徹と法城寺と兼重以外は焼幅が狭いです。武用一徹の作刀が多く、実用面に重きをなした作刀が多いです。裁断銘も江戸新刀からです。

{新々刀鑑別編}

 

水心子正秀一門

  水心子正秀は当時人気が高かった助広の涛乱刃の写しから作刀を始めて、江戸後期の世情の乱れから武用への回帰を目指し、復古刀の活動を行いました。下原一門などの刀工に弟子入りし、最初は美濃伝を元に古刀の作刀の研究を始めたようです。この活動は多くの武士の人気を集め、弟子は数百人に及んで多くの名工も輩出されました。名工の一人は同郷の出身である大慶直胤、もう一人は細川正義です。他にも日本中の刀工が手紙を通じてなど様々な形で弟子入りしており、さながら刀工の道場の様な形であったようです。 直胤は備前伝だけでなく各伝も器用に造り、特徴的な杢目肌が顕われた古調な互の目を得意として、姿が美しいことが特筆できます。古刀の写しは特に巧みで、最高の彫りと名高い末相州の彫りを見事に再現した義胤彫りを刀身に併せるなどして、古名刀の再現に成功しています。また細川正義は勇壮な姿と美しい備前刀の蛙の子丁子を独創的にアレンジした華やかな丁子刃、細川丁子を得意としています。なお武用専一として減った姿を忠実に写す物もあります。

加藤一門

加藤一門は加藤国秀を始めとして、長運斉綱俊が率いた一門で、その兄の綱秀、甥には石堂運寿是一、弟子は高橋長信、青龍軒盛俊の他、さらに新々刀随一の名工である固山宗次などがおり、まさに名工揃いの一門です。綱俊は水心子の門下ともなっておりますが、宗次などは時代的にやや後で幕末を中心に活躍しています。特に固山宗次は新々刀の中で最も多くの作刀を誇る刀工で、弟子も多く工房制であったと思われ、多くの高級武士の注文に応じて作刀しておりました。まさに、備前長船祐定、近江大掾忠広に次ぐトップブランドでありその水準の高さ、出来は目をみはるものがあります。刀としての完成度は、まさに完璧で、ムラが全くなく実用上でも多くの実績をもっています。特注品になるとその造り込みや姿もまさに一点物で、古名刀の健全な姿を再現した上に独創的な工夫を感じさせます。

山浦一門

現在では新々刀刀工の中で最も人気のある一派です。当時は中級武士や町人などからの注文に応じて作刀していたようで、主に実用面に配慮された作刀をしています。武用に利する為に四方詰など傷が出がちな鍛えをあえて行い、良く斬れると言われた柾目肌を目指したようです。作風は出身の浜部系の影響か、備前伝を主軸に尖り状の刃など美濃伝の所作も見ます。刀工一人でほぼ作刀を賄う一人鍛冶の為に出来にかなりムラがありますが、一振り一振り個性が見出せすので希少性から、芸術的な評価が高く人気を博しております。高級な皮鉄を使ったものは出来が良く、清麿では改銘前後より作風が変ります。